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書き込みありがとうございます 投稿者:武田徹  投稿日:10月13日(日)13時10分06秒

ばんまいさん、お久しぶりですね。書き込みありがとうございます。
下の発言を書いていたときにちょうど見つけて少し心が騒ぐ感じがした言葉を。

「故郷を甘美に思うものは、まだくちばしの黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられるものは、既にかなりの力を蓄えた者である。全世界を異郷と思うものこそ、完璧な人間である」。
 12世紀のスコラ哲学者ヴィクトル・ユーゴーの言葉らしい。「らしい」というのは柄谷行人「スピノザの無限」からの引用だから。信じていいのかしら。

Re: 表現の自由 投稿者:ばん まい  投稿日:10月12日(土)21時49分17秒

武田さん、当所にお集まりの皆さん、こんにちは。

先の武田さんの書き込みにあったRauch氏のこと、同氏の住まいや
Wittgensteinの建築の絡まった感想が、とても興味深かったです。

人とうまく付き合って行けそうにない者が雑誌の編集長を務め、不自由さとは
何かを表現できそうな者が自由至上主義的な筋での論考を展開する---成る程
ニンゲン、そういう風にできているような気もします。 そういう風、つまり
自分への反作用として対象を捉えた方が、より的確にその対象を表現し得る
(何だか全然「つまり」になっていません)・ 自己に対照的な事柄の方が
自分に率直なものよりも精確に綴れる、という具合。

こういうことを、tritelyに、客観視とかobjective XX とか云うのでしょう
か。 厳しく客観的で自分という者に対して素直でない感じであったり自虐的
な味わいが漂う表現物は少ないという気がしていましたが、そう感じること
には、観察者の読み込みが浅いという原因があるのかも知れません。

表現の自由 投稿者:武田徹  投稿日:10月12日(土)16時07分17秒

柳美里裁判の機会にプライバシーと表現の自由の問題について言及しようとして、宮崎哲弥がジョナサン・ローチ『表現の自由を脅かすもの』(角川選書)を2ちゃんねる問題を論じる時にどこかで引いていたのを思い出して取り寄せてみた。
ローチの考え方は表現の自由の問題は、全ての表現が批判、反論に向けられて開かれているということによってしか守られないと言うもの。極論すれば誰にでも人を中傷する権利はあり、そのかわり中傷された人が仕返しする権利も全面的に保証される。表現の自由を認めるとはそういうことだという立場。こう書くと暴論のように思えるだろうが、自由とはそれが万人に認められることを社会が許容できるものでなければならないというロールズの正義論を逆手に取れば、表現の自由を認めるというのは、そこまでラディカルな自由を社会に遍在させる覚悟を伴うものでなければならず、そうでなければ中途半端な表現の自由は、一部の人にだけ利益をもたらす不公平なものになってしまう。しかし、これは2ちゃんの存在価値を支持する場合の論拠にはなるが、プライバシーに関する場合はどうなんだろう。プライバシーを暴く表現の自由も誰にも認められた権利であり、そのかわりプライバシーを暴かれた人が言論行為として仕返しをする権利も全面的に保証されるということで、この問題は解決の方向に進められるのだろうか。
これは、ちょっと要検討だが、今回、そのローチの本を取り寄せて、発見したことがあった。日本語訳の著者名はローチだが、スペルはRAUCH。それを知って驚いた。ジョナサン・ラウチだったらよく知っている。90年代の初頭に彼が国際文化会館のフェローとして来日していた時に会って、その後も、彼が東京に来る度に食事をしたり、遊んだりしたものだった。繊細で、優しくて、身体も貧弱だったし、アメリカ人のイメージをことごとく裏切る感じだった。そのころ、うちによく遊びに来ていた黒い野良猫と対面して、彼は非常に気に入り、猫を背中に載せている写真がある。猫の方も危害を加えなさそうな人間だと瞬間的に分かるんだろう、脅えもせず、ずっと昔からそこにいたかのような顔でえばりくさって自信堂々と写真に写っていた。猫を背にのせられるのはラウチが猫背だったから。聞いたら何か病気なのだそうだ。よく聞き取れない難解な病名の単語を口にした。
その後も来日する度に猫を遊ぶことを喜んでいたが、猫が行方不明になってしまったと伝えると本当に心から哀悼の念をこめた手紙を書いてきた。日本人よりも猫の方が好きだったのかもしれない。彼にはどこか深い部分で人間嫌いのところがあったように思う。ワシントンで会ったとき、彼の部屋を見せて貰ったが、すごくきれいにかたづいていて、それがどこか人間くささを拒絶する感じで、ウィーンでウィトゲンシュタインが設計した家を見たときと似た感覚があった。寒々とした思いがした。
日本で会った最後の時、彼は自分の秘密を告白した。ぼくはそんなことは気にしないと応えたが、それ以来、音信不通になったのはやはり彼なりに考えたり、平然と受け流すぼくに幻滅したり、そんな奴に話してしまったことを後悔したり、その他もろもろに感情的な起伏が生じた結果だったのかも知れないと推測していた。
で、本で久しぶりの対面となったのだが『表現の自由をーー』の著者肩書きを見ると『ナショナルジャーナル』編集長とある。この媒体にも彼のイメージがそぐわないし、編集長というのもなんか違和感がある。人と一緒にうまくやれる感じではなかったが。
猫背で、その意味で軽い奇形でもあった(さきほどの秘密とこれは直接は関係ない。ただ詳かには書けないが、そちらも差別の対象となり兼ねないプライべートな事柄だ)彼は差別や、プライバシーの問題も当然重く受け止めていたはずだ。そんなラウチが徹底的な自由至上主義の文脈で表現の自由の問題を解決しようと考えている。著者を知らない読者とは違い、なまじ知っているぼくはその姿勢には色々と思いを馳せてしまうのだ。

週刊誌 投稿者:武田徹  投稿日:10月10日(木)07時01分39秒

スパのニュースコンビニは通常は水曜日入稿で木曜校了なんだけど今回は月曜入稿、火曜校了という変則スケジュール。これは来週がハッピーマンデーで月曜休みなので、進行が前倒しになっていたのだ。
で、運命のいたずらというか・・・・、いつもよりも早めに書かなければならないので古くならないネタを選んだつもりだったのだが、今日の午後の時点でもう二つも裏切られてしまった。金正日と、竹中は、ったく困るというか・・・・・、具体的には発売日前なので書けないが、もしいつもどおり水曜入稿だったらフォローできた動きだったのにと残念。しかも雑誌が出るのは来週火曜日なのでなんとも格好悪い。一応対象とした期間が明示されるので、読者にはこうしたクリッピングもこの時点では仕方がなかったと思って貰えるようにはなっているが、一日掛けて脂汗かきながら書いた記事だったのにと悔しい。

テレビタックル 投稿者:武田徹  投稿日:10月 8日(火)09時20分21秒

少し旧聞に属する話だけど、書いておきます。
先日、珍しく夜の早い時間にTV放送をみていて、テレビ・タックルを見た。ハマコーと田嶋陽子がフィーチャーされていて、たけしは冴えなくて、最近、この番組はこんな感じなんだろうか。下手すると一年以上ぶりなのでよくわからない。しかし、そこで気になることがあった。番組の放映は小泉新内閣閣僚が発表された日だったと思う。しかし番組の収録はその前だったというテロップが時々流れる。で、気にあったのは出演者の態度だ。
まだ結果が出ないうちに番組を収録し、結果が出ていないことを織り込んで面白可笑しく対応するのはバラエティ番組の定石である。巨人が優勝する前に収録した番組でも優勝後の放映になる場合は、わざと時制をずらしてコメディアンが話す。見れていないはずなのに「しかし、すごかったねー、あの優勝決定戦は」という具合に。事情を知っているスタジオの観客はそれを笑う。収録と放映日のズレという物理的な問題、生放送を重視し、TVの事情は出来るだけ見えないようにする価値観を相手取り、ある意味で逆手にとって相対化する、いかにもTV的な笑いの文法だ。
しかしその番組ではコメディアンだけではない、民主党や自民の議員もスタジオ出演していたのだが、彼らも同じように、未来の話をさも知っているように、あるいは知り得ないところは適当にお茶を濁し、笑いを取りながら、話していた。放映日時点では入閣していた(つまりその数日前の収録の時点でも入閣はある程度予想されていたが確定はしていないし、たとえ内定していてもまだ公表もできない)人も出演していたのだが、閣僚人事の話題になると苦笑しながらするりと逃げてみたりして、まさにTV的な番組作りの一つの定石を政治家もうまくこなしているのだ。
これはタレビタックルだからということはある。NHKの政治討論番組だったら出演者はあくまでも収録の時点を現在として語るだろう。しかしテレビタックルでは、TVの文法にあわせて政治家までは時制をずらして語る。ずらしきれない部分はギャグとして解決する。
そこまで政治家に演じさせるほどTVは強くなった。メディアと政治の上下関係を考えさせられる。

書き込みありがとうございます   投稿者:武田徹  投稿日:10月 6日(日)13時48分59秒

上田さん、石井さん、書き込みありがとうございます。
お二人とも考えを深めつつある段階で、その一端をお書きいただいたものであり、この掲示板読者と共に議論の行く末を見守りたいと思います。
お二人の考えの深まりとはあまりにそぐわない、少しだけ軽めのコメントを(汗)。

>ちなみに私の見解は国交正常化交渉と同時進行での真相究明。及び日米中韓ロ
>5カ国による外交的政治的囲い込みによる交渉力の強化、国交正常化後の犯罪
>人引渡条約発効による拉致実行犯の送致との同時履行での経済援助実施です。

同感ですし、これはまさに「同時」がキーワードですね。外交とか、異文化間の利害調整は「同時」に何が出来るかが問われるところがある。いかに順序を主張する姿勢を最小化できるかは確かに大事だと思いました。

柳美里については、実は問題になった初めの時点でぼくは「柳美里はあまりに小説が下手くそだった」の一言(苦笑)である程度までは説明がついてしまい(表現が違っていて、たとえば神々しいまでに現実が作品世界に昇華されていたら、書かれた方の意識の在り方、社会、司法の反応も全然違ったと思いますよ、実際)、文学者が本腰を入れたコメントをしないのも、あまり高尚な理由ではなくて、つき合いのある出版社の手前もあるし、同業者をその種の方向で批判しにくい事情もあって「小説が下手だから」とは、まさか言えないもどかしさのせいもあるのではないかと思っていたのですが、

>モデル女性の顔面の腫瘍を、プライバシーと表現の自由の視点でどう捉えていくか、がすごくひ>っかかっています。顔は隠せない場所であるがゆえに「プライバシーはない」という立場と、顔>に疾患という病状がある以上、それは「プライバシー」として慎重な対応が求められる、という>立場があり、今回の判決では後者が尊重された、とも言えます。

確かにこの方向に考えを進めて、この件を普遍的な文脈で議論してゆくことは出来るし、意味がありますね。
全く見当はずれの連想ですが、上田さんが911を引いていたこともあって、イスラム原理主義の、女性が顔を全てを隠す文化をふと思いました。
完全にプライバシーを隠すことで、表現される可能性もなくなるとも言えますが、その解決はあまりに極端であり、表現の自由の概念を受け入れ、創作活動から、社会的な批判活動までその概念の下で存在価値を定立しているぼくたちは、イスラム原理主義的なプライバシー解決策はもう受け入れられない。どこかで表現の自由とプライバシーの折り合いをつける必要がある。しかし公的が表現が踏み込みうる私的領域の深さをどこまで認めるかは、ぼくが先に書いたように表現のレベルでの違いももちろんあるし、様々な「徴」(いやな表現ですがーー)に対する社会の差別の状況と、そうした差別の状況に向かう当人の意識の在り方など、様々なファクターが入って揺れるので難しいですね。
冒頭にも書きましたように、拉致問題、柳美里裁判結審といった具体的な事件を巡る流れも踏まえて、更にお二人のお考えが充実して行かれるのを期待してやみません。

柳美里氏の歴史的な判決 投稿者:石井政之  投稿日:10月 6日(日)09時36分57秒

武田さん、こんにちは。
柳美里氏の「石に泳ぐ魚」裁判で最高裁判決が下されたことで、粥川氏がこの掲示板で書いていたので、少しだけ触れておきたいと思い、書き込みます。
いろいろな視点であの裁判を検証する必要があると思いますし、文学者からもさまざまな発言が出てくるだろう、と思っていますが、私は顔にこだわって仕事をしてきた人間として、モデル女性の顔面の腫瘍を、プライバシーと表現の自由の視点でどう捉えていくか、がすごくひっかかっています。顔は隠せない場所であるがゆえに「プライバシーはない」という立場と、顔に疾患という病状がある以上、それは「プライバシー」として慎重な対応が求められる、という立場があり、今回の判決では後者が尊重された、とも言えます。
 裁判というのは見る角度によって、多面的な様相を呈していきます。私の視点はその多面性の一面だけではないか、という自覚はありますが、その一面が社会にきちんと伝わっていないならば、伝えてきたいと思っています。
 この事件を考えると心身共に疲労困憊するのですが・・・。

それ結構重要です 投稿者:上田 勝  投稿日:10月 5日(土)20時54分43秒

武田さん、こんにちは。

>北朝鮮は洗脳だってしかねないと考える人が多いですが、
>では日本は違うのかって省みる姿勢は必要だと思います。

本格的な洗脳は意図的に交代人格を形成するのに似て、いわゆる
マインド・コントロールともちょっと違うものと認識してますが、
細かいところはさておき、洗脳のシステムに近いものがあると
いうご指摘は興味深いです。

最近あちこちで拉致問題と国交正常化交渉に関して議論をしては
四面楚歌状態なのですが、反論する人々が総じて言うのは「日本の
主権が侵されたのだ」「拉致被害者を取り戻すためなら一個中隊
犠牲になってもかまわん」「交渉の必要無し」などえらい勢いで
ちょっと右よりな方々が息巻いております。同じ日本人が同胞に
加えられた仕打ちに対して怒るのは当然であり援助などとんでも
ない、金正日体制を崩壊させる方が日本の国益なのだと。その見解
を自分たちは多数派だと思って展開している。

今回の事件で日本がいきなり右に寄ったような印象さえ受ける
わけですが、私はその根底には9.11のニュース映像が影響している
と思うんですね。繰り返し流される崩壊シーンと涙を流しともに国歌を
歌いあうアメリカ市民の映像。強烈な愛国心。これらを見せられて、
日本人の多くはもしかしたらうらやましささえ感じたのではないか。
日本人は今やばらばらで、彼らのように怒りに震えて団結すること
さえできない。そうした思いに沈んでいるところに日朝首脳会談の実現です。

つまり拉致被害によって高まった国内世論は、ある意味「プチ9.11」だと。
そういう印象をうけております。なぜ日本は米国のような毅然とした態度
がとれないのか、という意見の底には現在のブッシュの構想が理想的な
指導者像であるかのような錯覚が入りこんでいるような気がしてなりません。

ちなみに私の見解は国交正常化交渉と同時進行での真相究明。及び日米中韓ロ
5カ国による外交的政治的囲い込みによる交渉力の強化、国交正常化後の犯罪
人引渡条約発効による拉致実行犯の送致との同時履行での経済援助実施です。

書き込みありがとう 投稿者:武田徹  投稿日:10月 4日(金)13時35分31秒

上田さん、書き込みありがとう。
少し書かれた内容からは飛躍しますが、北朝鮮は洗脳だってしかねないと考える人が多いですが、では日本は違うのかって省みる姿勢は必要だと思います。反復、情感への訴えかたなどにおいて拉致関係を報道する今のメディアの状況には、実は洗脳のシステム一般と近いところがある。もちろん同じ洗脳でも、「どう」洗脳するかが問われるので(へんないい方だけどそうですよね)、だから日本はだめなんだと返す刀で斬りつけて鬼のクビをとったかのように有頂天になる単純な議論には陥りたくないですが、少なくとも日本の価値観を貫こうとするだけで対話が成立しないのは確か。日本嫌いゆえの北朝鮮擁護論ではなく、逆に根拠のない日本無垢論でもなく、バランスの取れたうまい立ち位置をとって行く必要がメディアにわれわれにもありますね。

生存者の帰国 投稿者:上田 勝  投稿日:10月 3日(木)15時44分37秒

生存者5名の帰国は、望ましいことであるのに違いはないのだけれど、帰国したらしたでマスコミは連日彼らを追い掛け回すのでしょう。帰ってきたからと言って、確かに表面では歓迎しても、彼らはきちんと就職し、そして子ども達は学校に行けるんだろうか。クラスの生徒たちに受け入れてもらえるだろうか。

確かに北朝鮮にあのままいても幸せに暮らせるとは思えない。しかし同胞の元に帰ってきたからと言って、幸せになれるとも限らない。生存者達を一日も早く帰国させたいとこちらは願う。しかし彼らは帰国には極めて慎重のようだ。そう体制側に言わせられているという考えもできる。しかし本当に生存者が帰国を不安に思っているとすれば、やはり家族は訪朝し彼らと会って話をするべきではないだろうか。

誘拐犯のところにわざわざ出向いてまで会いたくない、という思いもわかる。しかし長い間離れ離れだったのだ。会いたいとずっと願っていたはずだ。しかし素直になれないのは、やはり会うことに対する家族の不安があるのだと思う。この両者の間にわだかまる心情は、そのまま離れていた両者の年月がいかに残酷なものだったかを語っている。

柳美里裁判について 投稿者:粥川準二  投稿日:10月 1日(火)19時35分27秒

 武田様、ごぶさたです。私の友人で、顔にアザのあるジャーナリスト、石井政之氏が柳美里の裁判をずっとウォッチし続けています。近々、どこかの媒体で見解を発表するでしょう。下記は彼のウェブサイトのURLです。ご参考までに。

http://homepage2.nifty.com/masaishii/


近況 投稿者:武田徹  投稿日:10月 1日(火)16時53分39秒

 昨日、今日は取材も授業がないので原稿。といっても相変わらずバイオC1を持ってスタバやタリーズやサイゼリアをハシゴている。スパのニュースクリップが拉致問題特集のあおりで来週送りになったので締め切りがひとつ減り、九死に一生を得た。そうじゃなかったら結構きつい一週間だったのだが、天の助けと思って『編集会議』向けのデジタルジャーナリズムの原稿を昨日の晩のサイゼリアから前倒しで始める。これはうまくゆけば、加工して戦争報道の単行本にも収録できるかもしれない。
 それにしても、前にも書いたがこのバイオは長寿だ。一年半生き残っているのは今までの歴代マシンの短命さを思えば脅威である。ただだいぶ内部的にはこんがらかってきているようで、先日、アイワの半導体レコーダーに玩具っぽいカメラがついているものを買ったのだが、そこからのデータ転送用ドライバーがインストールできなかった。不明なデバイスとして表示され、そこから先に進まないのだ。ユーザーサポートに電話してかなり長い時間、あれこれ試してみたが結局、駄目で、過去に組み込んだUSB用ドライバーのいずれかが悪さをしているのではないかという結論になった。個々にはトラブルを発生させないのだが、色々とアプリが積み重なってゆjくうちに相互作用でトラブることがあるらしい。これも長寿ゆえの、いろいろと仕事をしてきてくれたゆえのトラブルなのだろう。しかしパソコンはいつになってもブラックボックス的な部分が消えず、いわば家電化しない。こうした進化の在り方は今までの道具の歴史の中では異例ではないか。永遠に成熟しない技術というものが存在しうるのか、そんな興味で省みれば、デジタル技術のあまりに落ち着きのない展開ぶりも少しは気持ちに余裕を持って眺められる(かな?)。
 仕事の合間にラオックスをパトロール。単三で動くデジカメが殆どなくなりつつあるのを憂う。ニコンとサンヨーの宗旨換えは幻滅した。こうなるとうちの古いニコン990やサンヨーsx150を捨てられないし、このままでは最後の単三モデルとなりそうなサンヨーMZ2やニコン5000(外部電池ホルダーが必要)を廃番になる前に押さえておこうかという気持ちにもなる。単三で使用時間が短いというのは確かに問題だが、次々に電池を替えながらの使用であっても、どこでも手に入る単三で使えることの方がメリットが大きい場合があるのだ(でもMZ2ってアルカリで動いたっけ?)。目の前で何か大事件が起きているのに電池が無くて撮れない時の悔しさの深さを開発者は考えて欲しいものだな。
 撮れないということでは(って妙な連想だが)岡村昭彦の『南ベトナム戦争従軍記』を昨晩読んでいたのだが、解放戦線支配地区訪問で彼は殆ど撮影できていない。カメラを取り上げられてしまったので。で、従軍記は文章のみの本として岩波新書から出るのだが、これが面白いし、感動的でもある。こういう文章を書けるフォトグラファーは今はたしているのだろうか。これは文才と言うより、世界との向き合いかたの問題だ。フォトジャーナリズムの衰退を憂う声があるが、受け皿をなくしてゆくマスメディアの問題だけでなく、写真家の側の問題もあると思った。岡村は最初に通信社と契約したときカメラの使い方など実は全然知らなかった。その写真はちょっとピンぼけどころか全部ピンぼけだったとも言われる。しかし「フィルムのつめかたは知らなかったが、何を撮るべきかはわかっていたので迷いはありませんでした」と語ったという逸話がある。

ロンドンに着いた妻から、夜、移送中の載戦車を目撃したというメールが届く。これはイラク侵攻用かしらと。それにしても街中で兵器を見ると誰もが驚く(兵器おたくは除く)。風景との違和感に嫌悪感を抱くようだ。デザインの文法が一般のものと異質で、美意識との整合性を必要としない機能のみのかたちはやはり禍々しさを感じる。日野啓三もサイゴンの街中で偶然、米軍の戦闘爆撃機を目撃してしまった体験から、そんな異形の物体を生みだした人間の歴史に思いをはせて文学化していた。

柳美里は・・・・どうなんだろうか。

台風が接近している。イギリスでは日本はスーパータイフーンに襲われているとニュースで報じたとか。

柳美里裁判 投稿者:名無しの探偵  投稿日: 9月29日(日)10時53分10秒

プライバシーに対する感受性の欠落は柳に問題があるが、「差し止め請求」(日本の民事裁判でも
原則として差し止めは認められていない。勿論、差し止めを認めるべき事件はあるが。)は表現の
自由に関しては厳しすぎる内容だと思うが。
かつての「愛のコリーダ」裁判、「サド裁判」、「四畳半襖」裁判ほどの作家連中の関心も見られない世相となっているようだが、これこそ問題ではないのだろうか。

後悔 投稿者:武田徹  投稿日: 9月26日(木)20時42分51秒

9月中旬の、出張に出る朝に寝坊させてしまうまでにぼくを疲労困憊させた原稿がそろそろ雑誌になっている(早いのは原稿校了に近いギリギリのタイミングで入稿しているからだ)。で、急いで書いただけに、書き足りなかったことが、後から気になってしょうがない。もう発売されたようなので解禁になったと考えて書くが、ユリイカの『クリプトノミコン』の評は、量子コンピュータの扱いがやや舌足らずだった。だいたいまだまともには全然出来ていないものを取り上げるのはそれだけで難しさがあり、実は量子コンピュータが本当に現在のチューリング機械コンピュータよりも高速なのかも、数学的には解決していない問題らしい。そのあたりまで書き込めれば良かったのだがそこは飛ばしてしまい、量子コンピュータはチューリングマシンコンピュータよりも飛躍的に高速で暗号解読の速度も短縮されるだろうと言う「俗説」をそのまま書いている。
で、もうひとつ問題はRSA方式の素因数分解の困難を由来とする暗号が(飛躍的に速くなると仮定された)量子コンピュータ時代にも成立し得るのかということだが、素因数分解に関しては量子コンピュータ理論では従来の解法ではない、より効率的な解法がありえるという説がある。これにより素因数分解の時間は量子コンピュータの高速演算と相まって飛躍的に短縮され、今では解法に1000年かかる問題が、量子コンピュータでは4秒で解けてしまうとかとサイモン・シンは『暗号解読』では書いている。しかし(計算上の空論だとはいえ)4秒必要なのだとすれば、もっと素因数を大きくして量子コンピュータでも解くのに1000年かかる素因数分解問題は設定可能ではないか。そう考えて、ユリイカでは量子コンピュータでも計算にとんでもなく長い時間が必要となり、実質的に解読不能な暗号は創造可能だろうと書いた。基本的にそれで間違いはないとは思うが、先にも書いたように量子コンピュータ自体がまだ現実化していないので、確証のない諸説紛々たる中で、やや不用意な書き方だったかなという印象は残った。
これは素因数分解問題だからいけないという側面もあり、いわゆるNP完全問題のように、量子コンピュータがたとえ完成した暁にも計算不能であることは変わらないと「おおよその数学者が考えている(西野哲朗『中国人郵便配達問題』講談社メチエより)問題を利用した暗号とでも書き換えておけば、少しは気分がすきりしていたのかなという後悔がある。気にしすぎかもしれないけれど(量子暗号というアイディアもあるようだが、これは少し別の発想のものだ)。
あとNAVIのマッカーサー道路の話。戦後憲法草案の土地公有化案を取り上げているが、土地公有化は、本当に民主的な政府が出来ていて、その管理で行われない限り、危険である。実際には「本当に民主的な政府」など画餅であり、その意味で草案の土地公有化案は廃止になってとりあえずは良かったとぼくは思っている。そうじゃなかったら、確かに私権の肥大の上に膨らんだ土地本位制のバブル経済は起きなかったかもしれないが、共産主義国家のように土地の管理を通じて市民社会を政府が管理する国に戦後の日本はなっていただろう(満州国ではそれを実際に行っている)。そのあたりの含みが、紙幅の関係で書けなかったのが後になって気になった。註でも入れておけば良かった。
編集済

描かれたハンセン病 投稿者:武田徹  投稿日: 9月25日(水)23時25分08秒

講演は、聴衆はどう思ってくれたかわからないが、本人的には言いたいことは言って終了。
後で回収したアンケートに眼を通したが、「映画『小島の春』のロケ場所が愛生園そのものではなく、伊豆で行われたと聞いたが」と言う質問があった。もうお会いできるかどうかわからない人が質問者なので、ここに書いて読んで貰えることを期待するしかないのだが、詳しい調査はまだしていないので、可能性だけを書きます。

俳優が園内の作業として演じている部分や、患者が農作業している風景はたぶんおっしゃるとおり愛生園内でのロケではないでしょう。当時、患者地区はかなり厳密に隔離されていたはずなので、撮影を許可したとは思えない。撮影ではなく、見学しただけの新聞記者の話ですが、白衣を着せられたり、消毒されたりで辟易したと書いてあるのを読んだ記憶があります。
ただ、ぼくが「これは当時の愛生園ではないか」と言ったシーンは、船着き場と、本館、そして患者の住居棟を俯瞰したところ。まず船着き場と本館は患者地区ではないはずなので、制度的には撮影は出来るでしょう。住居棟の俯瞰もたぶん可能だったのではないか。ということで、こちらは本物を撮っている可能性が高いと思います(たとえば俯瞰の映像からは、地形的に今の愛生園と同じだとぼくは感じました。船着き場に歩く男性医師は花田健輔の面影があるようにも思いました。思いこみからの誤解もあるかもしれませんが、また注意してみてみます)。ただ愛生園の歴史をひもとくと『小島の春』の脚本家と監督の来園記録はありますが、撮影の記録はないので、あの部分は確かに新規にロケしたものではなく、確かに撮影な愛生園で行われたが、過去のニュース映像など資料映像を使ったのかなとも思います。いずれにせよ、調べてみて何か分かったらこの場を通じてお伝えしたいと思いますので、お待ち下さい。

さて講演のために久しぶりに荒井英子『ハンセン病とキリスト教』岩波書店を読み返す。これは素晴らしい仕事だと改めて思う。荒井が示すようにキリスト教はハンセン病差別・排除に間違いなく加担した。無らい県運動への協力、愛生園への寄付は当時の時世の中で精一杯に患者を救済しようとした行動だったといってもそれは詭弁だ。療養所に実際に足を踏み入れ、患者の置かれた状況を、救済の幻想に酔った視線ではなく、リアリズムの視線でみれば、その詭弁性がすぐにも分かろうというものだ。
仏教でも、たとえば大谷派はハンセン病隔離への加担を正式に謝罪したはずだ。しかしキリスト教はそれをしていない。まるで戦前の植民地支配を謝罪できない日本国と同じなのだ。
そんな日本のキリスト教集団の過去を、キリスト教徒であり、牧師でもある著者が断罪する仕事が『ハンセン病とキリスト教』だ。そして、興味深いのは、確かに日本基督教団などの団体はハンセン病隔離への加担について謝罪していないが、荒井の「自己批判」の仕事を認める動きもキリスト者の中にあることだ。
ぼくはハンセン病とキリスト教の関わりを調べて、自分がミッション系の大学を出ていることをとても恥ずかしく感じるようになっていた。しかし『ハンセン病とキリスト教』を読むと、まだまだキリスト教には自己を批判し、革新してゆく生命力があり、未来があるのかもと思う気持ちになれる。ぼくはクリスチャンではないんだが、そのへんの幻滅したり、希望を感じたりする気持ちには微妙なものがある。

告知 投稿者:武田徹  投稿日: 9月25日(水)09時04分02秒

今日は目黒区立東山社会教育館というところで「ハンセン病と文学」という話をします。ハンセン病関係で4週連続のシリーズ講演をやっていて、その最終回。文芸評論家ではない自分としては、文学だけでは場が持たないので、メディア論の広がりの中で、ハンセン病イメージを扱い、基本的に以前、岩波から出した論文集『ハンセン病』に書いた「描かれたハンセン病」をもとに話す予定。講演と言うよりテキストを使った講義スタイルになりそうな感じです。
主催者も告知をされているようですが、あまり「入り」が良くないみたい(高山文彦氏が確か2回目にやっているはずです。彼のようには知名度が高くないからなー。申し訳ないですね)で「どなたかお知り合いがいたらお誘い下さい」と前から言われていたのでした。原則として目黒区民のみ対象らしいですが、外部からの参加も出来ないわけではないようです。しかし、あまり話すのがうまくないので、この種の講演には根深いコンプレックスがあるし、しかも知り合いを前にすると話しにくいというのもあり、逡巡の結果、ついつい告知が当日朝になりました(苦笑)。でも、そうでなくても、平日の昼というのは、たとえば勤め人には少し厳しいですよね。

頑張ります! 投稿者:さらん--けえ  投稿日: 9月25日(水)01時55分07秒

>もっと生活アドバイザーみたいな準法律家が身近にいる必要がありますね。
全く同感です。今回こうやって指導いただけたのがなにより嬉しいです。また、こんなことこそ、武田さんの主宰なさるオンライン・ジャーナリズムの真骨頂ではないか、と無責任に感じ入っております。少なくとも、この場所のおかげで私は得をしました。

上田様、本当にありがとうございました。
また様々勉強させていただけたら幸いです。

どういたしまして 投稿者:上田 勝  投稿日: 9月24日(火)01時39分40秒

さらん--けえさん、こんにちは。

>日頃自分、不動産業界の地域的な商慣習は、それ自体が法云々より
>迫る形でこっち側に出張っているような印象を皮膚感覚で持っています。

それは確かにあると思います。不動産業界は個人事業が多く、どうし
ても法律がどうであるかではなく自分の思いこみで事業をしがちですから。
本来法律は事業主だけが知っていればいいというものではなく、消費者
こそが知らなくては自己防衛もままならないわけですが、一般に生活と
法律とは遠い関係にありますからね。

法律上の常識と生活慣習上の常識とは異なります。このあたりの温度差
が、結局は消費者を弱い立場に置くことになります。しかし法律上は
消費者は最も保護されている存在ではあるんですけれど。法律を悪用
するのは法律を知っているからこそできる。しかし法律をよく知らない
消費者の側には弁護士事務所のイスでふんぞり返っている弁護士ぐらい
しか頼りになる人間がいない。ここが問題であるんでしょう。もっと
生活アドバイザーみたいな準法律家が身近にいる必要がありますね。

上田勝様へ 投稿者:さらん--けえ  投稿日: 9月23日(月)06時43分44秒

詳細な説明を本当にありがとうございました。自分の誤解の部分などが割とはっきりし、お陰で少々目の曇りも取れたように思います。
たまに週刊誌等でこの件に関してはあおり記事がでます。その度に読んでは妙な不安をかき立てられておりました。武田さんのレスを読んだときも感じたのですが、この権の持っている意味合いがまともに使われさえすれば、双方ともに利益が生まれるはずだということみたいですね。掘り出し物がでるというのは心強いし、ワクワクもしてきます。とまれ、何にせよ、注意深く見て、聞いて、という風に行けば臆する必要はなしというようで、得心しました。

日頃自分、不動産業界の地域的な商慣習は、それ自体が法云々より迫る形でこっち側に出張っているような印象を皮膚感覚で持っています。社会的立場の弱いものは、そういう空気によって足元を見られて泣き寝入る場合も少なくないと思っています。誰がどういう心持ちで何の決まりを作ろうとしているのか、またそれは動きとして現時点でどこまで来ているのだろうか、ということは、性分がらとても気にかかります。
先にも書いたように、少しものがはっきりとして気も晴れました。

応えてくれてどうもありがとうございました。本当、嬉しかったです。

絶食療法三日目ー2 投稿者:武田徹  投稿日: 9月22日(日)20時48分11秒

下で書いたことだけど、施設に尋ねたら、脂肪率の上昇はファスティング中に身体が脂肪を取り込もうとする動きと説明された。機械の誤差ではない説明の仕方もあるようなので、一応、フェアを期して書き留めておく。
さて、最後のメディアカルチェックでは血管年齢検査をした。その結果は、なんとぼくは「28歳の血管」の持ち主なのだそうだ。これは、ぼくが女性に「幾つなんですか」と年齢を聞かれて、場合によってサバを読む年齢である28歳と一致する。サバを読む時にぼくが単に女性の歓心を買おうとしているわけではなく、身体的傾向の一面の真理を語っていたことが、これで、期せずして証明されたことになる(笑)。なんて数値で一喜一憂してはいけないとさっき書いたばかりなのだが。ま、血管年齢の真偽はさておき、あらゆる意味で「残り時間」が刻々と減っていることは確かなので、いろいろ頑張らないといけないなーなんて、施設から生還(おおげさ)した帰りのバスで改めて、しかし血糖値の低い脳でぼんやり考えていたのだった。短いファスティング体験だが、ごく軽微な「再生」の経験にはなっているのかもしれない。

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